旧細菌検査室

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旧細菌検査室について

旧細菌検査室

旧細菌検査室は、明治28年(1895年)に長浜検疫所の建物群のひとつとして建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊、その翌年再建されたものです。
また、この地で世界的細菌学者として有名な野口英世博士が明治32年(1899年/当時博士は22歳)に検疫医官補として約5か月間、検疫業務を行っており、ペスト菌患者の発見にも功績を挙げました。永い年月を経て荒廃したこの建物は、平成9年(1997年)の大がかりな補修によりすっかり甦りました。野口博士ゆかりの研究施設としては日本に現存する唯一のものです。

撮影:らかんスタジオ
横浜検疫所 長浜措置場全景
昭和26年(1951年)撮影 横浜検疫所蔵

野口英世と横浜検疫所

明治12年(1879年)7月にコレラの蔓延防止のために神奈川県地方検疫局が設置され、同年9月に三浦郡長浦(現在の横須賀市長浦)に設けられた「長浦消毒所」が、横浜検疫所のはじまりです。現在の場所(横浜市金沢区長浜)に移転したのは明治28年(1895年)、その際に名称も「長濱検疫所」とされました。

明治32年(1899年)4月、「海港検疫法」の公布に伴い「横浜海港検疫所」と改名。同年5月に北里柴三郎の伝染病研究所の研究助手だった野口英世(当時22歳)が、同所に海港検疫医官補として勤務をはじめました。入所すぐの6月、野口英世は横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸」の乗員から、検疫所初ともなるペスト患者発見、隔離という成果をあげました。

野口英世が検疫所に勤務した期間は明治32年(1899年)5月から9月までのわずか5ヶ月間でしたが、その功績より、師である北里柴三郎からの推薦を受けて、当時ペストの流行していた清国・牛荘(ニューチャン)に国際予防委員会の一員として派遣されることとなったのです。翌明治33年(1900年)、前年春に知己となったシモン・フレキスナー博士を訪ねアメリカに渡り、以降国際的な活躍を果たす野口英世ですが、横浜検疫所での実績は彼の躍進への第一歩であったと言えましょう。

改修工事前の旧細菌検査室
現在の旧細菌検査室

保存の経過

小暮葉満子 編著 「今ふたたび野口英世」から抜粋

野口英世ゆかりの細菌検査室の保存「野口博士ゆかりの細菌検査室」との邂逅は1979年の8月某日。
あぶら蝉の鳴く暑い昼下がりでした。
懇願して、上司の許可を得た守衛さんに横浜検疫所・長浜措置場内を奥深く案内されました。「細菌検査室」は深い緑の木立に囲まれ、ひっそりと佇んでいました。屋根、外壁はもとよりガラス窓など荒れ放題。一見して資産価値のない荒れ果てた木造の建物ではありますが、ここぞ「世界的細菌学者・野口英世ゆかりの施設」と思いを新たにすると、“何か行動を起こさねば”という衝動を禁じえませんでした。
18年間にわたる保存運動はここから始まります。

(中略)

活動の足取りを、節目ごとに写真や新聞記事でご披露することとします。この保存運動は決して平坦な道ではなく、多くの障壁に直面しました。
時には“猪突猛進”との批判を受けながらも「保存への情熱」が前に押し出してくれました。幸い、協力者や支援者の輪が全国ネットで拡大していきました。
1997年5月22日、長浜・野口記念公園が開園、開館することによってこの「保存運動」は成功裡に完結したといえます。
それには、関わりあった行政の諸官公庁による恩恵を受けました。
深いご理解を示された旧厚生省と大蔵省、国から施設を有償で払い受け、「長浜・野口記念公園」を新設し、ここに「細菌検査室」を重要施設と位置づけて保存していただいた横浜市に深く感謝の意を表します。